【倭城の歩き方】西生浦倭城を歩く

韓国の城

西生浦倭城とは?

西生浦倭城縄張図

 西生浦(ソセンポ)倭城は、釜山広域市との市境に近い蔚山(ウルサン)広域市蔚州(ウルジュ)郡西生面に所在する。文禄の役(第一次朝鮮出兵)の文禄2(1593)年、後の世に“築城の名人”と謳われた加藤清正が築城し、守備も担当した倭城である。城跡は標高130m(比高ほぼ同じ)の山頂と、海岸段丘をはさんだ海岸線に近い小高い丘にまたがって占地し、眼前には日本海を望む。

 慶長3(1598)年に日本軍が撤退した後は、朝鮮王朝側の西生鎮城(朝鮮水軍の城)として利用されたが、朝鮮時代後期(17~19世紀)の絵画史料『蔚山西生鎮図』によると、鎮城に使用されたのはもっぱら外郭線内に留まり、山城は放置されたままとなっている(太田秀春2011「朝鮮王朝の日本城郭認識」『倭城 本邦・朝鮮国にとって倭城とは』倭城研究シンポジウム実行委員会、城館史料学会)。

 現在、城内には桜の樹が植えられて、春は花見客で賑わい、新暦の元旦には初日の出を拝むスポットにもなっている。近年は史跡整備が進み、石垣の修築や駐車場、トイレなどの整備が進んでいる。当城は遺構の保存状態に加えて、縄張りの巧妙さやロケーションの良さも手伝い、近頃では歴史雑誌や一部の観光ガイドブックにも紹介されるなど、日本の城郭愛好家にも人気の的となっている。

行き方

 西生浦倭城への一般的な行き方は、KORAIL(韓国国鉄)釜田(プジョン)駅から急行「ムグンファ号」に乗り、南倉(ナムチャン)駅で下車する。便数は2時間に1本間隔である。

 下車後、南倉駅前から鎮下(チナ)方面行きの市内バス(路線バス)に乗り換え、その名も「西生浦倭城前(ソセンポウェソンアプ)」バス停か、一つ先の「鎮下海水浴場(チナヘスヨクジャン)」バス停で下車する。「西生浦倭城前」という名も魅力的だが、「鎮下海水浴場」で下車した方が、降り立った時に目に飛び込んでくる登り石垣が感動的である。

 なお南倉までは、都市鉄道(地下鉄)2号線海雲台(ヘウンデ)駅を下車してすぐの、海雲台市外バスターミナルから蔚山行きの市外バス(急行バス)に乗り、南倉駅前で途中下車する方法もある。こちらは1時間に1本間隔の運行である。

西生浦倭城を歩いてみる

 西生浦倭城の縄張りは、山頂部の山城(Ⅰ)と海岸側の小丘に築かれた一城別郭の曲輪群(Ⅲ)からなり、両者を長大な登り石垣で連結して内部を駐屯地(Ⅱ)とすることで縄張りの一体化を図っている。Ⅲには、「舟入」と伝えられる平面形が「L」字形をした袋小路状の地形Bが残る。

 それでは麓から順に歩いてみよう。まず目に最初に目に飛び込んでくるのが“西生浦倭城名物”の登り石垣である。麓から山頂まで伸びる長大な登り石垣はまさに「圧巻!」の一言で、これを見るだけでも同城を訪れる価値があると言うものである(写真1)。

清正石(写真2)

 この登り石垣に虎口Dを開口するが、ここには折れからの横矢が掛かる。ところで尾張名古屋城の枡形虎口には、通称「清正石」と呼ばれる巨石が使われている。この割普請の丁場を担当したのは黒田長政だが、後世に「こんな巨石を運べるのは清正しかいないだろう」と誤伝されたためである。しかしここ西生浦倭城には、虎口Dの隅角部に正真正銘の「清正石」が残っている(写真2)。この石材は高さ約2.5m×横幅約1.2m×厚さ約75㎝で、現存する倭城の中では間違いなく最大の石材である。他の虎口ではこれほどの巨石使用が見られないことから、ここが大手相当の虎口と思われる。

 なお当石垣は個人宅なので、見学には注意が必要である。ながめるだけなら特に問題はないが、節度をもって行動していただきたい。

二様の石垣(写真3)

 さて清正の居城熊本城には、「二様の石垣」と呼ばれる異なった時代の石垣が重なり合うようにして残り観光スポットにもなっているが、当城にも「二様の石垣」が存在する。曲輪のコーナーCに石垣を積み足して隅櫓台状に改修しているのだが、石垣の中にもう一つ稜線が見える。つまり写真右手の稜線が先に積まれて、左手の稜線が新しく積まれた関係になっている(写真3)。同城の石垣は稜線に反りがなく直線的であるのに対し、その後に積み足された石垣には僅かに反りが見られ、熊本城に見られる「扇の勾配」の萌芽を彷彿させるものがある。

 山頂部の曲輪群は総石垣で築かれるが、山頂のⅠ郭が主郭(本丸)でこの主郭を中心にして山上に曲輪を連ねる。曲輪ごとに枡型虎口や食い違い虎口を連続して開口することにより、攻め手は真っ直ぐ進むことができず、常に鉄砲や弓矢などの砲火にさらされる構造となっている。また石垣の周囲にも横堀を巡らし、さらに横堀から数条の竪堀を落しており、日本国内の近世城郭ではほとんど見られない手法である。

 主郭の西北隅には天守台を設けている。朝鮮側の史料によれば、この上に実際に建物が建っていたようである(松井一明2014「西生浦城」『倭城を歩く』サンライズ出版)。建物の構造を示す史料はないが、天守台の広さから見て3層程度の天守が想定される。

閉塞された虎口の水門(写真4)

 主郭背後の曲輪には、枡形虎口を石垣で閉塞した痕跡が残る。虎口を完全に塞いだ結果、曲輪内に降った雨水を城外へ排水するための水門が設けられている(写真4)。これも熊本城に残る、抜け穴と言い伝えられる「石門」に似ているように思える。現在は土砂でかなり埋まって開口部が低くなっているが、植民地時代に撮影された古写真を見ると、現在よりも開口部が高く、両肩に2石を積み上げその上に天井石を載せているのが分かる(国立晋州博物館2018『丁酉再乱1597』)。

 これは苛烈を極めた「蔚山の籠城戦」を経験した結果、虎口を閉塞して籠城戦用に特化した改修のためとする説があるが(八巻孝夫1979「西生浦城」『倭城』Ⅰ、倭城址研究会)、一方で、倭城廃城後に西生鎮城へ再利用された際の改修とみる説もある(前掲太田文献)。

まとめ

 このように西生浦倭城は、登り石垣だけでなく他にも見所の多い城跡である。また天下の名城とうたわれた清正の居城熊本城と共通する要素が多く、清正流築城技術の発展を考えるうえでも大変貴重な城郭遺跡と言える。

タイトルとURLをコピーしました