【善徳女王】トンマンまで70歩…ユシンの月城とピダムの明活山城は今も残っている

【善徳女王】トンマンまで70歩…ユシンの月城とピダムの明活山城は今も残っている

先日、韓国最古の史書『三国史記』新羅本紀の真平王から武烈王までと、列伝の金庾信(上)を読む機会がありました。同じ頃、MBCドラマ『善徳女王』を見ていたため、史実とドラマが頭のなかでリンクしました。また先月、新羅の都があった慶州の遺跡めぐりを行ったことで、史実とドラマ、さらに遺跡がリンクしました。今回は『善徳女王』の最後を飾るピダムの乱と、ピダムの乱に登場するふたつの城を紹介したいと思います。

善徳女王とは

善徳女王こと徳曼(トンマン)は、新羅第26代王・真平王と摩耶夫人の間に誕生しました(生年不詳)。『三国史記』によると、情け深く、聡明な人物だったようです。真平王に男子が無かったため、娘のトンマンが第27代王となりました(在位632〜647年)。『善徳女王』では、人気女優のイ・ヨウォンが演じ、好評を博しました。

ピダムの乱とは

毘曇(ピダム)は、上大等(新羅最高位の役職)を務めた貴族で、ドラマ『善徳女王』では、キム・ナムギルが好演しました。
善徳王16(647)年正月、ピダムと貴族の廉宗(ヨムジョン)は、女性の王では国をうまく治めることができないとして、クーデターを起こしました。この時、善徳女王と将軍の金庾信(ユシン)らは月城に、ピダムとヨムジョンらは明活山城に陣を置いて対峙しました。

月城〜明活山城は直線距離で約4.5km

『善徳女王』61話と62話(最終回)は、この事件を『三国史記』に記されているエピソードを交えながら、ドラマチックに描いています。例えば、最終回冒頭のシーン(両軍が睨み合っているある夜、大きな星が月城に落ち、善徳女王が倒れてしまう)。『三国史記』には、このように書かれています。

丙辰の日の夜、大きな星が月城に落ちた。ピダム等は兵士たちに「私は星が落ちる所には、必ず流血があるということをきいている。これは間違いなく、女王が敗北する兆しである」と言うと、兵士たちは大声でこれに和して叫んだ。(中略)ユシンは、人形を作って鳶につけて風にあげると、火の塊が空に舞い上がった。翌日、ユシンは路上で「昨夜落ちた星が空に舞い戻った」と宣伝させて、ピダム軍を惑わせた。(『三国史記』巻第四十一 列伝 第一 金庾信(上)より)

ドラマとほぼ同じです。

善徳女王とユシンらがいた月城

月城ジオラマ(国立慶州博物館所蔵)

月城は、三国時代から統一新羅時代まで王宮があった城で、全長1.8kmの城壁がよく残っています。半月のような形をしているため、半月城と呼ばれることもあります。

城壁と濠

現在も発掘調査が続いており、土器、瓦、木簡、鉄器などが見つかっています。

城内は発掘調査中

ピダムとヨムジョンらがいた明活山城

明活山城北門周辺

明活山城は、海抜259mの明活山に築かれた山城で、その城壁は全長6kmに及びます。『三国史記』では「明活城」の名でたびたび登場します(現在の正式名称は慶州明活城)。

実聖尼師今4(405)年夏4月、倭兵が明活城を攻撃したが、勝つことができなかった。
慈悲麻立干5(462)年夏5月、倭人が活開城を襲撃し、千人を引き連れて行った。(→活開城は明活城のこととされる)
慈悲麻立干16(473)年秋7月、明活城を補修した。
慈悲麻立干18(475)年春正月、王が明活城に移って居住した。
炤知麻立干10(488)年春正月、王が住みかを月城に移した。
真興王15(554)年秋7月、明活城を修築した。
真平王15(593)年秋7月、明活城を改築したが、周囲が3000歩であった。

『三国史記』新羅本紀より

また、1988年に発見された真興王(チヌン王)時代の石碑「明活山城作城碑」には、高さ14m、長さ21mの城壁を35日で築いたと記されています。工事についてこれほど具体的なことがわかっている古代山城はなかなかありません。

明活山城作城碑(国立慶州博物館所蔵)
城壁基底部には、新羅山城の特徴とされる基壇補築(きだんほちく)がある

北門周辺からは、7世紀のものと思われる瓦片が大量に出土しています。ピダムの乱当時、北門は瓦葺きの立派な楼門だったのかもしれません。

北門とその周辺の城壁は、2013・2014年の発掘調査終了後も、ブルーシートをかけることもなく放置されていましたが、昨年末、ついに復元工事が始まりました。現地案内板によると、工事が終わるのは2018年11月14日。さらに、2020年には4.7kmの散策路と四ヶ所の展望台が設置され、2026年には駐車場整備が行われるようです。

ピダムの乱、その後

ユシンらの働きにより、10余日で鎮圧されましたが、善徳女王は反乱の最中、正月8日に亡くなりました。
その後、新羅は唐とともに(羅唐同盟)660年に百済を滅ぼし、続いて668年には高句麗を滅ぼします。しかし数年後、唐と対立を深め(羅唐戦争)苦戦を強いられます。その後紆余曲折を得て、ついに朝鮮半島初の統一国家を築きます。この辺りの歴史は、KBSドラマ『大王の夢〜王たちの戦争〜』で描かれています。

ドラマ・史書・遺跡

冒頭で「三国史記を読んだ」と書きましたが、私が読んだのは現代語訳版です。原文を読むことができればそれに越したことはないのですが、私は文献史学の専門家ではないので、読むことができません。
新羅の歴史というと『善徳女王』と『大王の夢〜王たちの戦争〜』しか触れたことがありませんでしたが、現代語訳版はすらすら読むことできました。今回はピダムの乱だけを取り上げましたが、他にも「◯◯は実在の人物だったんだ!」とか「あのエピソードも本当のことだったんだ!」とワクワクさせられる記述がたくさんあります。

慶州には『善徳女王』ゆかりの遺跡が数多くあります。新羅の偉大な王・真興王、ドラマではピダムの父にあたる真智王、トンマンの父・真平王、そして善徳女王(トンマン)、武烈王(チュンチュ)、ユシンなど、主要人物の墓が残っています。また、今回取り上げた月城と明活山城は、ユネスコ世界文化遺産「慶州歴史遺跡地区」のなかの遺跡のひとつ。つまり、ユシンらがいた月城とピダムらがいた明活山城は、世界遺産の城なのです。

善徳女王陵

現在、国立慶州歴史博物館では特別展「皇龍寺」を開催中。かつて皇龍寺には、高さ80mの九層木塔があったとされていますが(現在は礎石が残るのみ)この塔を建てたのが善徳女王です。この特別展を機に、善徳女王ゆかりの地を散策するのもいいかもしれません。
国立慶州博物館特別展「皇龍寺」は9月2日まで。